町並み案内 ⑩ 瓦葺きの町並み・寺脇家(かわらぶきのまちなみ・てらわきけ) 町並みで標準的な住居で、正面左側入口の大戸が特徴的です。寛政の大火(1800年)後の建築です。大火後、代官所から防火対策として茅葺きを禁止し、瓦葺きか板葺きにするようお触れが出ました。 また、江戸時代の大森町絵図によると、この一帯は銀山附地役人の野沢家の家屋敷があったようです。 6代目の野沢左源太晟正(あきまさ)はここ... 2022.9.29
町並み案内 ⑨ 駒の足(こまのあし) 「駒の足」は戦国時代、銀山に出入りする商人の荷馬に課した税のことで、地名はそれに由来しています。大都市銀山には各地から多くの荷を積んだ馬や商人が訪れ、さぞかし賑わったことでしょう。 江戸時代には現在の銀山口自治会館の場所に「大森下口番所」が置かれ、銀山や大森に入り込む商人から十歩銀を徴収していました。 十歩一銀の課税対... 2022.9.29
町並み案内 ⑧ 羅漢町橋(らかんちょうばし) この地域では珍しいアーチ形の橋です。大正4年(1915)に工事費221円をかけて作られました。 羅漢町は羅漢寺が創建されて以降に誕生したもので、いわば羅漢寺の門前町としての性格をもつ地域といえます。江戸後期の史料には「羅漢市」が開かれたことが記されており、市の日には多くの人が訪れたことでしょう。 羅漢寺は江戸湯島の真言... 2022.9.29
町並み案内 ⑦ 大音寺橋(だいおんじばし) 橋を渡った山側には浄土宗大音寺がありました。慶長15年(1610)、銀山町の浄土宗極楽寺の住職良隋によって創建されました。 寛政12年(1800)に大森町の3分の2が消失した「寛政の大火」で本尊を残して焼失しています。その後、本堂は再建されましたが、明治末年には無住となり、ついに昭和18年(1943)の大水害で流失しま... 2022.9.29
町並み案内 ⑥ 大森座橋(おおもりざばし) 橋のたもとにあった「大森座」は花道や回り舞台も備えた立派な芝居小屋でした。 大正4年(1915)に大森鉱山を経営する藤田組が資金を出して建設。昭和39年(1964)に解体されるまでの間、町民の娯楽の場として親しまれました。 旅芸人の芝居は町の人々の大きな楽しみだったことでしょう。... 2022.9.29
町並み案内 ⑤ 京信寺橋(きょうしんじばし) 京信寺を渡った山側には「京信寺」というお寺があったようです。町の人はこの橋を渡ってお寺にお参りされたことでしょう。 このお寺については宗派や創建年などの詳細は不明でわずかに地名として残されているのみです。かつて「銀山百ヶ寺」と呼ばれ、多くの寺院が銀山や大森にありましたが、この京信寺もそのなかの一つであったのでしょう。... 2022.9.29
町並み案内 ④ 新町橋(しんまちばし) 大森は代官所がある宮ノ前と、銀山町に隣接する駒の足の両端から中央に向けて町並みが形成されたと考えられています。「新町」は最後にできた場所なのでこの名前が付けられたとのことです。 江戸時代、新町では毎年4月13日から18日までの間に牛馬市が開催され、各地から博労と呼ばれる牛馬の仲買人などが多数入り込み大いに賑わいました。... 2022.9.29
町並み案内 ③ 中市橋(なかいちばし) 江戸時代の大森町は「宮前」・「下市」・「中市」・「新町」・「駒足」の五組に分けられていました。中市橋より上手を「中市」、下手を「下市」と呼んでいました。 下市には大森町最大の商家であり、掛屋や御用達などといった代官所の仕事を勤めた熊谷家があります。掛屋は領内の村から納められる年貢銀を検査・秤量する重要な職務を担いました... 2022.9.29
町並み案内 ② 銀蔵橋(かねくらばし) 銀蔵橋を渡ったところに代官所の「御銀蔵」がありました。そこで、この道を銀蔵小路、橋は銀蔵橋と呼んでいました。 銀蔵小路は熊谷家の横を通っていますが、これは同家が掛屋(かけや)を勤めていたことと関係があるかもしれません。 御銀蔵は銀山で生産された灰吹銀(はいふきぎん)や銀山領の村々から納められる年貢銀(税)、さらに代官... 2022.9.29